ブ日記

ウェッブでつける日記です。

オタクの話/アカネの物語としてのSSSS.GRIDMAN

  そろそろ人に読ませることを意識した文章で今のところの見解をまとめておこう、と思ったので、僕がこのアニメをどういうものとして観てるか、それは必然アカネちゃんをどういう存在と見なしてるかになりますが、大ざっぱに書こうと思います。

 『SSSS.GRIDMAN』のシナリオはオタクについて語ったものであり、その中心となるのが新条アカネである、というのが僕の当初からの立場なんですが、それゆえにアカネのキャラ造形にはオタクならある程度共感できるような普遍的な部分が存在し、彼女が抱える固有の問題もそれらから派生してきているように思われます。この記事ではまず本作において彼女が代表する普遍的なオタクの問題を示した上で、アカネの物語をそれらのオタク的問題の具体的展開として見てみます。

 

オタクの話:全能感と卑屈

 アカネが今作の敵役であるゆえんは彼女が自分の都合の良い箱庭世界に引き籠り、その維持のために怪獣で街を破壊し住人を殺しているからなわけですが、彼女がひきこもる根本的な理由は恐らく他者への恐怖であり、これは二つのオタク的心性に由来します。第一に幼児的全能感を捨てきれないこと、第二にどうせありのままの自分は受け入れられないという、要はオタクっぽい僻み根性です。

 全能感については分かりやすいでしょう。当初からアカネは子供っぽさと余裕ぶった態度が目に付くキャラクターとして登場しているし、裕太たちに正体が知られてからは自ら神様を名乗り、彼らの前で自らの権能を得意げにアピールしてみせる。けれどその余裕は上っ面のものに過ぎず、彼女は他人のささいな振る舞いにさえ傷つく弱い心の持ち主です。

 人と上手く関わることのできないアカネにとって他者は己の全能感を脅かす存在であり、彼女が怪獣を作るのは自分が軽んじられていると思ったときや己の無力さを感じさせられたときで、己の無力に対する怒りをその原因となった相手に投影しているふしがあります。で、怪獣を暴れさせること自体が全能感を回復させる手段になっている。

 この全能感について言えばすでにグリッドマンによってポッキポキに折られてるわけで、これから”わたしにしか出来ない、わたしがするべき事”を再獲得する話なんだろうというのは容易に予想できます。*1

 一方ありのままの自分は受け入れられない、という感覚は、直接的には4話でlineアイコンを雑いじりされた時の卑屈っぷりとかに現れてるけれど、むしろ注目すべきは彼女の人気者設定と実態の乖離でしょう。自分が誰からも好かれる世界を作ったのにそこでする事は猫被って適当に話を合わせるくらいでむしろ単独行動の方が目立っている、これはおかしい。人から好意的に接されるのに慣れていなくて、どう反応すれば良いのかも分からないから一人でいた方が気が楽といったふうに見えます。

 自分の部屋の中でだけ眼鏡を掛けるあたり分かりやすいけれど、彼女にとっては独りでいるときの自分だけが本当の姿で、それを他人に見せることはありえないわけです(その割に一度仲間意識を持ったグリッドマン同盟相手にはやたら馴れ馴れしいあたりもオタクっぽい)。この辺の僻み根性は同じくオタである内海にも共通する話で、彼が女子相手に見せる卑屈さとそれと裏返しの軽蔑はアカネが他者全体に向けるそれと似ています。

 こういう卑屈さはそんな簡単に治ったりするものではないので、そういう意識を抱えたまま必ずしも自分を受け入れてはくれない世界と和解するやり方が提示されるはずだけど、そこで重要になるのが似たような存在である内海なんじゃないか。彼自身アカネが初めて見つけた同類だし(なんかたまたま同級生の中にいた)、それ以上に大事なのが彼が裕太と築いている関係です。

 友人としての記憶が無い裕太が内海の事を自然に親友と見なしているのはなぜか、と言えば、内海が裕太の事を全面的に信用し、常に支え合える関係を築いているからでしょう。*2結局アカネが本当に必要としているのは六花にありのままの自分を受け入れられることくらいのもので、それを実現するには(内海と裕太がそうしているように)自らが六花を理解すること、彼女を支えることを決意するしか無い。そういう意味ではアカネが六花の弱さを知ることが大団円への切っ掛けとなるんじゃないでしょうか。

 などと11話視聴までは思ってたんですが、彼女自身が怪獣になることが多分それまで隠してきた嫌な自己の暴露と重ね合わせられてるんで、もっと根本的なところでの解決がなされるような気もします。

アカネの物語:《怪獣》と《美少女》

 以上は割と一般的なオタクの話であり、このアニメを観てるようなオタクなら大なり小なり共感できるだろうと思います。しかし新条アカネ個人においてはこれらの問題はさらに展開して、彼女の特異なキャラ造形を作り上げています。彼女のアイデンティティは両極端な二つの理想に分裂していますが、便宜上それぞれ《怪獣》《美少女》とでも呼ぶことにします。これらはそれぞれ全能感と卑屈さに対応した、やはりオタク的な願望であり、アカネの物語自体ある種のオタク論として見ることが可能です。

 《怪獣》というネーミングは分かりやすいと思います。アカネ自身”怪獣”という言葉に特別の思い入れを持っていることだし。3話でアンチに言って聞かせた「怪獣は怪獣」という台詞が何より象徴的ですが、彼女は人間とは理解も共存もし合えぬ存在ゆえに怪獣に憧れています。自分と同様この社会に存在を許されず、しかし無力な自分とは違って人々の敵意をものともせず全てを蹂躙できる存在。

 恐らくアカネは人の気持ちを理解することが出来ないんだと思います。1話から彼女の言動が通常あるべきとされるものからかなりズレていることは示されてきたし、裕太たちが考えていることについてのアカネの予想はほとんど間違っている。*3

 しかし怪獣は人々にとって悪の存在であり、ウルトラシリーズにおけるやられ役でもあります。7話でアカネがアンチのスペシャルドッグを踏んづけるシーンは個人的にかなり生理的嫌悪感強かったんですけど、多分彼女はこんな事をしても胸が痛まない。自分がされて嫌だった事を他人には出来るのは人の痛みを感じられないから。そんなんだから彼女は普通に生きているだけでも無意識のうちに多くの人を傷つけてきたんでしょう。”居るだけで人の日常を奪ってくれる”怪獣のように。みんなみたいに上手くやっていけないし知らないうちに人に迷惑を掛けてしまう、そのくせいつも上手くやれる人々の事をひがんでばかりいる日陰者。オタクは往々にしてヒーロー番組の悪役にこそ感情移入するものです。彼女は自分が悪役側の、許されない存在だと信じていて、だからなおさら露悪的に振る舞うようになる。

 自分は《怪獣》だ、という認識は彼女の(特にオタクとしての)アイデンティティを支える柱ですが、同時に彼女を内から束縛するものでもあります。*4彼女の《怪獣》性が解消されることは考えにくい以上、アカネが自分を肯定するためにはその怪獣観が変わるしかない。ただこれについては心配は要らないでしょう。「人の心を読んだりしない、ただ居るだけで日常を奪う、人間とは全く異なる存在」という彼女の怪獣観は自室にずらっと並んだ円谷怪獣たちにはいまいち当てはまらないものだし、何より劇中に登場するアノシラスがこの怪獣観とは対極的な存在です。

 《怪獣》はアカネにとって人に知られたくない醜い面であり、《怪獣》への憧れの当然の帰結である彼女自身が怪獣になる展開はそれまで隠してきた裏の顔の暴露でもあるわけですが、裏の顔《怪獣》に対するアカネの表の顔が《美少女》です。

 《美少女》という言葉は劇中でのアカネを形容するにはそんなに適切でもなくて、《リア充》とか《ヒロイン》とかのほうが分かりやすいような気がしますが、オタク文脈で話を広げやすいんで《美少女》と言っておきます。

 ありのままの自分が人に好かれる訳がないと思っているアカネが誰かに好かれようとしたとき出来るのは、《美少女》とか《女子高生》とか、まあ何でもいいんだけどありもののイメージに自らをはめ込むことくらいであり*5(そのための演技も碌にこなせないのがアカネちゃんのアカネちゃんたるゆえんだけど)、劇中のアカネはアニメの美少女になろうとした(そして実際なってる)少女なのではないか、という話なんですが、そんなことをする大本の原因は六花に対する劣等感にあるんだと思います。

 劇中アカネが六花に向ける態度は単純な好意とは言いがたい、緊張をはらんだものですが、そこには一貫して、自分が六花と対等かそれ以上の地位にあることを確認したい、という意図が見て取れます。学校も人付き合いもあまり好きなように見えないのに「誰からも好かれる人気者」という設定で高校に通っているのも、元はと言えば六花と対等になりたいからじゃないか。

 六花は美人だしセンスいいし誰に対しても優しくてしかもそのことを自分では意識していない、眩しすぎる存在です。なみこやはっすは開き直って六花さん軍団になりきっているようですがアカネには割り切れない。あるいは自分を捨てた(”嫌いになれない”設定なんかを見るに、アカネはかつて六花に見捨てられたと感じているふしがある)六花を見返したいのかも知れませんが。*6

 で、その為の方法が何でアニメキャラになっちゃうのかと言えば何を目指せばいいかよく分かってないから。映画やアニメなんかで描かれるような本当の生活、本当の青春とでもいうべきものがここではないどこかにあって、どうやらリア充(この言葉が指すものもたいがい曖昧)とかはそれを謳歌しているらしい、というオタクっぽい世界観の下どうにかしてその輝かしい青春を掴もうとしても、それが具体的にどんな物であるかは皆目分からないオタクに出来るのはフィクションの登場人物を真似る事くらいです。実際アカネの他だと内海もセリフっぽい喋り方や「グリッドマン同盟の秘密基地」などフィクションを真似た言動が目立つ(まあオタクに限った話じゃないけど)。*7

 そんなんだからアカネの存在はどこか嘘くさい。特に声の演技に言える事だけど、六花が非アニメ的な、いかにも生っぽい高校生なのに対してアカネが表面的にはいかにもアニメ的な美少女であることはしばしば指摘されてるし、なみことはっすや内海によるアカネへの言及が抽象的なカタログスペックについてのものばかりなのに対して六花への形容は具体的なエピソードだらけです。

 さらに言えば、汗をかかないし固形物も食べない、肌には傷一つ付いていないらしいアカネの身体の異常性もまたアニメ的なものと言えます。オタにはアトピーや喘息持ちが多いとよく言われるようにオタクは生々しい身体に対する忌避感が強い。思春期の女性ならなおさらです。この記事でアカネがなろうとしているのは特撮やドラマではなくアニメの《美少女》とするのは、まあ決定的な理由はこの番組がアニメだからなんですが、自らの身体を忌避するオタクが「アニメの身体」に憧れる心理が彼女の設定から感じられるからです。*8

 なんにせよ《美少女》になりたいという願いは自己肯定感の無さに由来するものであり、《怪獣》への憧れとは表裏一体の、しかし決して両立しないものです。《美少女》でいたいなら《怪獣》の顔を決して知られてはならない。*9《美少女》の皮を被った《怪獣》とでも言うべき自己認識はかえって彼女の本質を《怪獣》側に固定してしまい、ありのままの自分が好かれるはずがない、自分が何かほかのものに変われるはずがないという認識を強化するでしょう。部屋に帰るたびに皮脱いでるならなおさら。

 彼女はこの自縄自縛から抜け出せるんでしょうか。9話で、夢のなかとはいえ《美少女》を演じ切れていたアカネちゃんは本当に嬉しそうで素敵でした。正直人気者になることを諦めて欲しくない。人に見せたい自分を演じること自体は悪い事ではないし*10その為のロールモデルをフィクションに求めることも必ずしも否定すべきことではないでしょう。*11アカネが他のキャラと一緒に笑う本編ではありえないシチュエーションの版権絵の数々に、こうだったらいいのにという妄想よりはこんな風にもなれるかもしれないという希望を見出したいところ。

 

 なんか気付いたらあれこれこじつけすぎた気がする。ここで書いたようなことが全て作中で回収されたらさすがに怖いので、こういう見方もできるよ程度に考えて下さい。僕は全部マジで思ってますが。

 最後にアカネがこれからオタクとしてどうしていくかの話を。箱庭世界でオタク的願望を逃避の手段にし続け、外部から目を閉ざしてきた彼女の情熱は枯れかけており、グリッドマンの登場も結局彼女を追い詰める結果になりました。アカネ個人の話としては、ここでオタクを辞めることだって有りなのですが、このアニメにおいて彼女は製作陣を含むオタクの代表なので、何とかして初期衝動を蘇らせる、あるいは新たな目標を獲得せねばならない。それがどう成されるかは分かんないすけど、何せこのアニメは電光超人の続編なんで、劇中アカネだけがクリエーターである(厳密に言えば彼女の被造物であるアンチもそうだけど)ことがカギを握るんじゃないですかね。

 

*1:もっと踏み込んだ話するとコレって実生活ですでに損なわれてる全能感を創作の世界で回復しようとしたらすごい奴には全然敵わないしなんか下に見てた後輩(7話のアンチね)にも取って代わられかねないっつう話に見えます。

*2:などと書いていたら11話で内海が大変なことになってた。まあこっちは何とかなるでしょ

*3:大本を正せば彼女がオタクなのも友達が出来ないのも臆病なのも、人の気持ちが分からない、というとこに由来するように思う。

*4:アンチや食べ物がらみの描写でアカネが「不幸な子供」であることを強調するの、僕はちょっと図式的すぎる気がしていたんですけど、アカネ自身にとって《怪獣》が(”愛さえ知らずに 育ったモンスター”みたいな)抑圧的な物語でもあることを示すためあえてやってんのかも知れない。

*5:終盤までのアカネちゃんの悪役っぷりも《悪役》の演技をしているんだと思います。自分自身を騙せているぶんこの演技だけは上手いのがオタクの悲しさ。

*6:こう考えてみるとこのアニメがアカネと六花をWヒロインっぽく打ち出してること、エッチな抱き枕カバーだのの公式グッズが必ず二人揃って作られること自体がアカネちゃんの願望の産物みたいに思えてきます。

*7:与太話をすると、アカネのやたら直接的な色仕掛けの数々もオタクがアニメの《美少女》の真似をしているせいなんでしょうけど、彼女は現にアニメ絵の美少女なので登場人物にとってはドン引き物の言動でも視聴者にとってはエロシーンとして成立してしまう、という妙な事態が生じている。

*8:ただやはり作中のアカネの身体は生きた実体のあるものらしく、普通に貧乏ゆすりをしたり咳込んだりする描写がある。むしろ山火事の中に無警戒に入っていったりと身体への無頓着さが目立つ

*9:むしろ怪獣みたいな美少女いいじゃん、と思われる方も多いだろうし現にアカネちゃん人気出ましたけど、別に彼女はオタク受けを狙っている訳では無いので《美少女》に大きな欠点があってはならないのです。

*10:あんま可愛くないし寸胴だしバカで性格も良くなさそうなはっすが自分を少しでもよく見せようとしていることが本作で何気なく描かれているのは示唆的です。

*11:まあ”美少女”って言葉の定義上容姿の良い若い女しかなれないんで、そのまま《美少女》をロールモデルにすることは抑圧的に働くんだが。