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一日陶芸教室体験記(脳内)

 最近東方ボーカルアレンジが聴けるようになってきた。これまでは(往々にして)アニメ声で歌われる同人音楽への拒否感やそもそもたいてい幼稚な内容の恥ずかしさゆえに聴取に耐えられなかったのだけど、年取ってその辺の自意識も薄れたし自分とは異質な人間と折り合っていかなきゃと割り切りもついたので(それで東方アレンジ!?)、大真面目に幻想少女たちの心情を歌った歌詞とかもまあ薄らニコニコしながら聞けるようになったのである。

 そんでYoutubeでオーエン聴いてたのよなんとなく。「フランちゃんが言いそうに無い歌詞だな~」とか時々思いながら何曲か聴いてるうちに、以前聴いてかなり気に入っていたネクロファンタジアのアレンジのことも頭にあったんだろう、今の自分の心情と強欲異聞以降のキャラ設定を絡めればそれっぽい歌詞が出来そうだなという期待がふとよぎって、歌詞の断片もすぐに浮かんできた。面白そうだからコンセプトや入れるべき単語、使えそうな比喩表現も考えてちょっとずつ詞を固めていったんだけど、驚いたのは詞を考える作業がひどく簡単だったことだ。

 もちろん素人の脳内遊びだから旋律も伴奏もあいまいで都合のいいものだし、韻律も考えてない訳じゃ無いけどちゃんとはしていないだろう。それにしても簡単すぎる。私は高校時代ノートに書くポエムにすら苦労した文芸部員(完成させた作品は無し)だったのである。なんでこんなすらすら詞が出てきて、しかも少しの修整で納得いくものになってしまうのか。

 読者は何を読まされているんだと思っておられるであろう。お前の脳内で完結してるんだから難しいもくそも無いだろうと。しかし私は驚いてしまったのだから仕方が無い。一日陶芸体験のレポートと思って読んで頂きたい。

 でもって東方楽曲にキャラをイメージした歌詞を当てはめるのが簡単な理由はかなり想像つくんである。まず事前にキャラに付随する記号が与えられていること。例えばフランドールなら、吸血鬼関係の語彙や「破壊」「壊す」、「お部屋」や「地下」なんかの単語を盛り込めば簡単にそのキャラらしさが演出できる。もっと遠いところではパチュリーがたまに降らすという「雨」とかですら知識のある聴取者を想定すれば使えるし(そう、私は不特定多数の人が架空の東方ボーカルアレンジを聴くことを想定して作詞ごっこをしていたのだ)、短い経路でそれらの単語を連想させるような言葉全般も効果を持ちうる。そういった語彙を散りばめる事をノルマとして設定することで、何の制限も無く詩を作るよりもよほど悩まずに作詞を進められるようだ。STGの道中みたいなもんである。

 また、既存のキャラクターのイメージに依拠した詩であるため、簡素な(あるいは貧弱な)表現であっても受け手がすでに持つ知識を利用して充実したイメージを伝えることが可能になる。ハイコンテクストな内容を、文脈の部分は自ら表現することなく受け手に丸投げすることが出来るのだ。フランちゃんがどんなキャラなのか共通認識が存在するから、歌詞の解釈は細々した描写や説明がなくてもある程度限定されるのである。

 最後に、作詞ごっこをする際に考えていたことを思い返すと、「らしさ」を表現するという明確な目的があることによって詩としてのクオリティに妥協がしやすくなったという要因も「すらすら思いつく」という感覚の理由として無視できない。「だからそれは徹頭徹尾あんたの脳内の話であって、クオリティも妥協も何も無いだろう」と思われるだろうが、たとえ遊びであってもより良い歌詞を思いつけば嬉しいし、箸にも棒にもかからないようなのしか考えられなければつまらない。そのことはモチベーションに繋がるのである。そして文学的に優れた詞を思いつかなくても(出来るか)、「らしさ」さえ表現できればそれなりに達成感は得られる。達成感はモチベーションを生み、その事によってますますスムースに作詞ごっこを進められるようになる。この事が、これまで小説でも詩でもまともに書ききった経験の少ない私を驚かせる「簡単さ」の理由なのかもしれない。

 ここまでだらだらと恥ずかしい文章を書き連ねてきてこれが何の役に立つんだと自分でも思うが、これらの理由は文学的言葉の扱いに慣れていないしろうとの作詞についてはある程度一般化しても良い要因だと思う。だからまああれよ、作った曲の歌詞が思いつかない人は東方二次創作にしちゃえば良いんじゃないですか?

 

おまけ

もう恥の意識がすっかり薄らいでるというかここまで書いてきた文章が普通に恥なのでついでに考えてた歌詞も載せてしまおう。なんせ詞が付くべき曲が存在しないのでどの歌詞がどの旋律に対応してるのか分かりにくいだろうけど、オーエンだし大丈夫でしょ。あと地下室に何でカーテンがあるんだとか考えないこと。

私は何をしているのだろうか。後で見たときが怖いな。

ハートを壊して
あの頃のように

退屈な朝 遊び足りない起きていたい
玩具だったら いくらでも替えがある
カーテンの向こう 太陽の光が私を責める
知ったことじゃないわ あんたには用はない

今日も暗い部屋で一人
もしもあなたがここにいたなら
きっと私見せてやれるの
誰も真似も出来ない事を
私きっと時間も止めるの
時の河をまとめて壊して

言葉は要らないよ 私絶対に分かるから
あの時の鼓動が 今でも胸を揺らしている
あの瞳を見せて 余計な物はみんな捨てて
ただ楽しいだけの 遊びをまた一度

ほかには要らないよ 優しい言葉破り捨てて
冷たい眼差しが 今でも胸を熱く焦がす
あなたのままでいて ほかの何にも構わないで
私に見せた夢 続きはあるんでしょ

光に照らされた 安っぽい物ばかりの世界
あなたに出会ってさ 私初めて憧れたの
この雨を止ませて 私を守る呪文消して
あなたが見た虹の 軌跡を探すから

※追記

 詞の拙さを気にするあまり”今の自分の心情”とか書いた上でこんなひきこもり中二の詩を載せてしまった事に気付かなかった。もちろんコンセプトを固めてフランらしくしていく過程で大元にあった己の心情とはかけ離れた物になってるのだが、ほらなんせ僕って幼稚じゃん? 「フランドール・スカーレットと自分を同一視するひきこもり」と思われてもおかしくない。

 それとは別にやっぱりより極端に演出された詩が普段意識に上んないような内面を可視化することはあるよなあとポエム考えてる間は再確認してました。言葉を取捨選択する過程の手触りというか抵抗がさあ……。要は芸術療法や箱庭療法なんだけど。