ブ日記

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ロマンティックな子供

 東京で一人暮らししていた学生時代、僕は、普段の生活範囲から外れた住宅地を歩いてメルヘン趣味な住居や古びたアパートのコンクリ壁なんかを見ているとだんだんノスタルジックな感傷に浸ってしまうという癖があった。たぶん自分の知らない場所に漂う「他人の生活」のにおいみたいなものに当てられていたんだろうと思っている。

 地元に帰ってからは基本どこも見慣れた場所なので当然その症状も起こらなくなっている訳だが、帰ってきてから五年以上経つ今となってはああいった感傷自体があの頃の若さ、というか幼さであるように回顧してしまう。

『君たちはどう生きるか』(2023)

 『君たちはどう生きるか』観る。

 やっぱりプレインズウォーカーの設定ってクレストマンシーシリーズが元ネタなのかなーと改めて思いました。ほら、ウルザみたいだったから。

 まあ真面目な感想も書くけど、きわめて王道のゆきて帰りしファンタジー(少なくとも前半は)を大量の自己引用とともにやる、という造りには宮崎アニメのネタばらしめいたところがあり、そのため終盤の自己言及としか取りようがないくだりも受け入れやすくなっていました。というかこの映画を観てやっと、宮崎作品の西欧ファンタジーへの憧れの強さが、例えば庵野秀明なんかが先行作品に向けるそれとさほど変わらないものなんだと思い当たりました。

 もっと言えば終盤のインコと大叔父に収束しちゃったドラマを観てると「僕だってそんなにオリジナルな訳じゃないんだよ。庵野細田とは違うんだが。お前らとは違うんだが」というぼやきのように感じられ、エンドロールに並んだ「カラー」「地図」「ポノック」等々の名前を観たときは良くも悪くも感慨深くなってしまいました。なんにせよ悲しさが残る映画ですが(王国造りは失敗に終わってるわけだから)。

 一番印象に残ったのは石の積み木がばらまかれた草地のシーン。積み木って画にするとなおさら暗喩として強いね。

 

一日陶芸教室体験記(脳内)

 最近東方ボーカルアレンジが聴けるようになってきた。これまでは(往々にして)アニメ声で歌われる同人音楽への拒否感やそもそもたいてい幼稚な内容の恥ずかしさゆえに聴取に耐えられなかったのだけど、年取ってその辺の自意識も薄れたし自分とは異質な人間と折り合っていかなきゃと割り切りもついたので(それで東方アレンジ!?)、大真面目に幻想少女たちの心情を歌った歌詞とかもまあ薄らニコニコしながら聞けるようになったのである。

 そんでYoutubeでオーエン聴いてたのよなんとなく。「フランちゃんが言いそうに無い歌詞だな~」とか時々思いながら何曲か聴いてるうちに、以前聴いてかなり気に入っていたネクロファンタジアのアレンジのことも頭にあったんだろう、今の自分の心情と強欲異聞以降のキャラ設定を絡めればそれっぽい歌詞が出来そうだなという期待がふとよぎって、歌詞の断片もすぐに浮かんできた。面白そうだからコンセプトや入れるべき単語、使えそうな比喩表現も考えてちょっとずつ詞を固めていったんだけど、驚いたのは詞を考える作業がひどく簡単だったことだ。

 もちろん素人の脳内遊びだから旋律も伴奏もあいまいで都合のいいものだし、韻律も考えてない訳じゃ無いけどちゃんとはしていないだろう。それにしても簡単すぎる。私は高校時代ノートに書くポエムにすら苦労した文芸部員(完成させた作品は無し)だったのである。なんでこんなすらすら詞が出てきて、しかも少しの修整で納得いくものになってしまうのか。

 読者は何を読まされているんだと思っておられるであろう。お前の脳内で完結してるんだから難しいもくそも無いだろうと。しかし私は驚いてしまったのだから仕方が無い。一日陶芸体験のレポートと思って読んで頂きたい。

 でもって東方楽曲にキャラをイメージした歌詞を当てはめるのが簡単な理由はかなり想像つくんである。まず事前にキャラに付随する記号が与えられていること。例えばフランドールなら、吸血鬼関係の語彙や「破壊」「壊す」、「お部屋」や「地下」なんかの単語を盛り込めば簡単にそのキャラらしさが演出できる。もっと遠いところではパチュリーがたまに降らすという「雨」とかですら知識のある聴取者を想定すれば使えるし(そう、私は不特定多数の人が架空の東方ボーカルアレンジを聴くことを想定して作詞ごっこをしていたのだ)、短い経路でそれらの単語を連想させるような言葉全般も効果を持ちうる。そういった語彙を散りばめる事をノルマとして設定することで、何の制限も無く詩を作るよりもよほど悩まずに作詞を進められるようだ。STGの道中みたいなもんである。

 また、既存のキャラクターのイメージに依拠した詩であるため、簡素な(あるいは貧弱な)表現であっても受け手がすでに持つ知識を利用して充実したイメージを伝えることが可能になる。ハイコンテクストな内容を、文脈の部分は自ら表現することなく受け手に丸投げすることが出来るのだ。フランちゃんがどんなキャラなのか共通認識が存在するから、歌詞の解釈は細々した描写や説明がなくてもある程度限定されるのである。

 最後に、作詞ごっこをする際に考えていたことを思い返すと、「らしさ」を表現するという明確な目的があることによって詩としてのクオリティに妥協がしやすくなったという要因も「すらすら思いつく」という感覚の理由として無視できない。「だからそれは徹頭徹尾あんたの脳内の話であって、クオリティも妥協も何も無いだろう」と思われるだろうが、たとえ遊びであってもより良い歌詞を思いつけば嬉しいし、箸にも棒にもかからないようなのしか考えられなければつまらない。そのことはモチベーションに繋がるのである。そして文学的に優れた詞を思いつかなくても(出来るか)、「らしさ」さえ表現できればそれなりに達成感は得られる。達成感はモチベーションを生み、その事によってますますスムースに作詞ごっこを進められるようになる。この事が、これまで小説でも詩でもまともに書ききった経験の少ない私を驚かせる「簡単さ」の理由なのかもしれない。

 ここまでだらだらと恥ずかしい文章を書き連ねてきてこれが何の役に立つんだと自分でも思うが、これらの理由は文学的言葉の扱いに慣れていないしろうとの作詞についてはある程度一般化しても良い要因だと思う。だからまああれよ、作った曲の歌詞が思いつかない人は東方二次創作にしちゃえば良いんじゃないですか?

 

おまけ

もう恥の意識がすっかり薄らいでるというかここまで書いてきた文章が普通に恥なのでついでに考えてた歌詞も載せてしまおう。なんせ詞が付くべき曲が存在しないのでどの歌詞がどの旋律に対応してるのか分かりにくいだろうけど、オーエンだし大丈夫でしょ。あと地下室に何でカーテンがあるんだとか考えないこと。

私は何をしているのだろうか。後で見たときが怖いな。

ハートを壊して
あの頃のように

退屈な朝 遊び足りない起きていたい
玩具だったら いくらでも替えがある
カーテンの向こう 太陽の光が私を責める
知ったことじゃないわ あんたには用はない

今日も暗い部屋で一人
もしもあなたがここにいたなら
きっと私見せてやれるの
誰も真似も出来ない事を
私きっと時間も止めるの
時の河をまとめて壊して

言葉は要らないよ 私絶対に分かるから
あの時の鼓動が 今でも胸を揺らしている
あの瞳を見せて 余計な物はみんな捨てて
ただ楽しいだけの 遊びをまた一度

ほかには要らないよ 優しい言葉破り捨てて
冷たい眼差しが 今でも胸を熱く焦がす
あなたのままでいて ほかの何にも構わないで
私に見せた夢 続きはあるんでしょ

光に照らされた 安っぽい物ばかりの世界
あなたに出会ってさ 私初めて憧れたの
この雨を止ませて 私を守る呪文消して
あなたが見た虹の 軌跡を探すから

※追記

 詞の拙さを気にするあまり”今の自分の心情”とか書いた上でこんなひきこもり中二の詩を載せてしまった事に気付かなかった。もちろんコンセプトを固めてフランらしくしていく過程で大元にあった己の心情とはかけ離れた物になってるのだが、ほらなんせ僕って幼稚じゃん? 「フランドール・スカーレットと自分を同一視するひきこもり」と思われてもおかしくない。

 それとは別にやっぱりより極端に演出された詩が普段意識に上んないような内面を可視化することはあるよなあとポエム考えてる間は再確認してました。言葉を取捨選択する過程の手触りというか抵抗がさあ……。要は芸術療法や箱庭療法なんだけど。

暦センパイにカンパイ

 どうも、グリッドマンユニバースとついでにダイナゼノンを観てたら棚ボタ的に就職が決まった元無職の三十男です。いやー、良いアニメを観ると人生変わるって本当なんですねえ~。などと与太話はたいがいにして、最近毎日酒を飲んでいる。経済的不安が緩和されて堂々と酒を買えるようになったというのが最大の理由なんだけど(これまでの私の生活は大体高校生みたいな金銭感覚で動いていました)、フルタイムで働くようになって睡眠時間を削らない限り余暇に費やせる時間が限られるようになった結果、なんとなく寝る前の半端な時間を飲酒と並行して過ごさないと損みたいな意識になっているらしい。まあよろしくない傾向なのでなんとかしたいけど、今後本格的に仕事が忙しくなっていったとき飲酒習慣がいよいよ深まっていくんじゃないかと不吉な予感を僅かに感じている現状である。

うちはてくちはてかれちるもの

 初代世界樹の感想で書き忘れてた事があった。

 あの極めて評判の悪い、そしてストーリー的にも不自然なモリビトせん滅作戦、およびその先に樹海第五階層が存在することは、例えば真・女神転生は素直に人の頼みを聞き続けると嫌な感じのlawルートに進むようになっているとか、それこそ新納DのDQビルダーズで語られる勇者が初めて自分の意思でした選択がせかいのはんぶんだったという話とかに繋がる、きわめて往古の和製RPG的な問題意識の産物だったんじゃないのか、という気がしている。

 初代世界樹は以降の作品と比べるとテキストがかなり少なく、ストーリーもわりと強引に進む一方で露骨なほのめかしもまた多い。ウィズルはプレイヤーギルドが帰った後もわざわざ思わせぶりな独り言を言ってるしNPCは迷宮探索の続行について懸念を口にし続けるが、プレイヤーにはただ次の階層に進む以外の選択肢は与えられない。その事がストーリー上効果をもたらしているとも言い難いのだけど、初代の特徴的な無常感の一部を成している気がする。