ブ日記

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『フロリダ・プロジェクト』(2017)

 ここではしばらくグリッドマンがらみ(というかアカネちゃんがらみ)の事しか書かないつもりだったが最後の最後の展開に衝撃を受けたので記事を書くことにした。*1というのも割とグリッドマンだったから。

 いや冗談だけど、少なくとも半ばは冗談だけど、SSSS.GRIDMANがやろうとしている事はこの映画とどっかで通底しているような気はする。

 

 実はフロリダ州のディズニーワールドはそれ自体のパチモノのようなキッチュな安モーテル群や土産物屋によって取り巻かれており、老朽化したモーテル群には賃貸住宅も借りられないような貧困層が住み着いて一種のスラムを形成している。そんなモーテルの一つ《マジック・キャッスル》に住む若いシングルマザーのヘイリーとその娘の悪ガキムーニーがこの映画の主役である。

 ヘイリーは真面目に職を探さずパチモン香水を観光客に売りつけたりして騙し騙し暮らしているロクデナシで、消費文化にすっかりスポイルされて何一つ辛抱できなくなった子供大人なのだが、ムーニーにはダダ甘で彼女が悪戯をしても一切責任を認めようとしない。ムーニーはガキ大将タイプで友達を引き連れては車にツバ吐いて遊んだり人からせびった金でアイスクリーム買ったり色んな人に迷惑かけながらも元気に暮らしている。二人が貧困のドン底にありながらも楽しく暮らしていけているのはヘイリーの親友アシュリーや雇われ管理人のボビーら隣人たちの貧乏長屋的親切のおかげだ。

 映画はムーニーが近所のモーテルに住む少女ジャンシーを子分にするところから始まる。ジャンシーはボーっとした子だが同性で齢も同じくらいということもあってか二人はすぐに仲良くなる。アシュリーの息子スクーティも一緒に三人で遊び回る楽しい日々。しかしムーニー達が廃墟で火遊びの末に火事を起こしたことをきっかけにヘイリーとムーニーを取り巻く状況は徐々に悪化し、ヘイリーは追い詰められていく。

 気の滅入るような展開の末避けられない破局が目の前に迫り、ムーニーがそれまで抑えてきた感情を爆発させたとき、ある人物のある行動によって世界はその姿をがらりと変える。それまで映画が映してきたもの全てが意味を変えると言ってもいいかもしれない。そしてその事は、我々にとってこそ意味を持つ。

 本作で最も魅力的な大人であるボビーが最後の場面ではただ佇む事しか出来ない、真の主人公というか全く唐突に覚醒したヒーローと対照的な存在でしかないことは驚異的である。ボビーは無為でも無力でも決してなく、変態っぽいじじいを人知れず追い払ってくれるクライムファイターですらあるにも関わらず。

 ネタバレの無いように書こうとするといまいち何が言いたいのか分からないような文章にしかならないので以下ネタバレあり。『フロリダ・プロジェクト』視聴済みなの前提で説明もあんましません。

 

 ラストシーンの意味については観る人によって全然解釈が違うしそれでいいんだろうからこれも僕個人の見方に過ぎないんだけど、単純にジャンシーはこの瞬間は逃げ出すことによって「サヨナラ言わなきゃならない。でも言えないよ!」と叫ぶほどに追い詰められていたムーニーから重荷を取り去ったんだと思う。最初はジャンシーが腕を引っ張ってたのが途中からいつも通りにムーニーが先導するようにもなっていることから、それだけで彼女の心が救われてることが感じられる。

 ただそれは、撮影技法が急に変わること、出演者ではないディズニーリゾートの客が画面に映るようになることが示すように、それまでの劇映画の世界からもっと別の現実への脱出でもある。フレームの外にも世界があるし、映画が終わっても人生は続く。ヘイリーやジャンシーと別れても、新たな場所での生活が始まる。そこで彼女は母親とは違う風に生きる術を学ぶかもしれないし、貧乏人が夢を見られない社会に変革をもたらすかもしれない。ただ一時、一緒に逃げることで、ジャンシーは悲しい別れという物語を壊して友人に広い世界を見せること、彼女がこれから生きていくための糧を与えることが出来たのだと思う。

 で、なんでグリッドマンなのかと言えば、これはそれまで他人の人生という映画を観てきた人が決定的な瞬間にそこに働きかけることでヒーローになる話だから。窓からムーニーを見るシーンが特徴的だがジャンシーは「見る人」として描かれる(ボビーもその傾向が強い)。それまでムーニーの後ろにひっついて彼女の話を聞くばかりだったジャンシーが、ムーニーが涙を抑えられなくなったとき、しばらく思案するように沈黙した後突然ムーニーの腕をとり引っ張っていく。急な視点変更とそれまで脇役っぽかったジャンシーが主体的なアクションを見せたこと、そこからiPhone手持ち撮影による揺れまくる映像に切り替わることに動転した僕は初見時「こいつは俺だ! 観客の代表だ!」と思ってしまったのだった。「ボビーみたいに優しくも強くもなれなくても人には誰かを救うために決定的な行動を取れる瞬間がある。この映画を観てるキミたちにもだ!」的なメッセージを僕はこの映画に見出しました。ほかにこんなこと言ってるヤツ一人も見たこと無いけど。

 どうでも良いけどこれ完全に”もしも誰かが君のそばで 泣きだしそうになった時は だまって腕をとりながら いっしょに歩いてくれるよね”だな。あと”奔り出せば ヒーローになれるよ”で”このまま脚を動かせば 光になる”でもある。

 さて、SSSS.GRIDMANは最終回直前、これまでグリッドマンの活躍をブラウン管越しに見てきた六花は友達の危機を救うため走りだし、内海は傍観者でしかなかった自身を自覚しました。彼らは友人を助けることが出来るのか、世界を開くことが出来るのか。と適当言ってまとめとします。

 

 以下箇条書き。

  • 貧乏人がなぜ貧乏なのかといえば(一月1000ドルのモーテルしか住むとこが無いとか)選択肢が無いからで、何故選択肢が無いのかといえば実際に権利が制限されてるからということはあまり無く、多くの場合は視野が狭められてしまっているからである。
  • ジャンシーがムーニーを救えたのはある意味彼女の世界にはムーニー以上に大切なものが無かったからだが、ヘイリーが破滅する最大の切っ掛けは子供が放火して親友に見放されたことである。クズはクズゆえに人々から見放されるが、それによりますます堕ちてゆくことになる。
  • 話の都合により、ヘイリーは完全なダメ人間で他の住人はおおむねまともな優しい人々、という感じになっているがボビーの存在によりこの地ではいくらでも似たようなことが起こっていることが窺える。
  • 子供の視点で撮ってるからこそラストでそれまでの視点から抜け出すことに意味がある。
  • ヘイリーも子供たちも社会性は欠いているのに消費者意識や権利意識は妙に強い。
  • 子供向けの消費文化を引きずったまま大きくなっちゃったって点ではオタクもこいつらと一緒なんだよな。いや、オタのなり方には色々あるんで必ずしも一まとめには出来ないんだけど、少なくともいい年こいてトランスフォーマーやらデジモンやらの子供騙しなおもちゃにこだわるタイプのオタクというのは、本当はもっと別に歳相応の関心事があるにも関わらず意固地に子供で居続けている節がある。

*1:この映画を観たのが10月下旬。記事書くのめんど臭がってたら最終回直前に上げることになってしまった。